誕生日に思う

今日、七月十三日は私の誕生日である。五十三年前にこの世に生を受けたのである。朝の二時過ぎだったという。実家の寺のある近くの産院で生まれた。産婦人科ではない。つまり産婆さんの手によって取り上げられたのである。先日、実家に掃除に帰った時、箪笥の小引出しから私の「臍の緒」が出てきた。母が大事に仕舞って置いたらしい。今は手元に貰ってきてあるが、小さな箱に入って干涸びた、わずか数センチの紐のような物体はたしかに母と私を結びつけていたしるしなのである。この紐から母は私に栄養を与え続け、出産の日まで育んできてくれたのだ。
目をつぶれば母の顔が瞼に浮かんでくる。こんな歳になっても顔が浮かんでくる。

朝、誕生日恒例のセルフポートレートを写す。裸で写す。三十歳になった時に何か自分を記録しておきたいと始めたこの習慣は二十三年になる。そうして二十三枚の「私」の写真が目の前にずらりと並んでいる。数年前に暗室を完全デジタル化にしたので、今はカメラをMacにつないで現像、修正してマクスアートで出力という手軽な作業になったので、短時間でプリントが見られるようになった。
こうして若い順からずらりと並べてみると体型の変化が著しい時がある。三十歳は激肥りしている。東京で仕事がキツかった頃だから暴飲暴食、不規則不健康な日々を送っていた頃だ。国立のマンションに帰るのが毎日午前様。そういえばこの頃ビリヤードにのめり込んで、家内も付き合わせて仲間と夜通し四つ玉を撞いていた。ビリヤード屋から直接丸の内の会社まで出勤したことも何度もある。よく飲み、よく遊び、よく稼いでまさに青春を謳歌していた。
しかし運動不足で太っていたのである。三十三歳には今度は激痩せ。この頃仕事上の重大事が発生し、責任問題から営業のひとりが札幌支店に飛ばされ、私も専務から口頭で厳重注意を食らったことがある。会社に数億円の損を出させてしまったこの事件以来、体調を崩し夜が眠れなくなった。毎晩首都高をクルマでグルグルと走りまわり、疲れて国立の家に帰ったら朝の六時という日々が続いた。家内の心配も大変なもので、あちこち病院に連れて行ってくれた。最後は吉祥寺の駅近くにあったクリニックを紹介され、会社帰りに毎週立ち寄り、安定剤、眠剤を処方してもらっていたのである。

その後退社をし、上司の紹介で大阪の商社へ再就職。ここからは面白かった。何年か後にバブルは崩壊したのだが、私はこの会社でバブルの恩恵を十二分に享受した。働けば働くほど跳ね上がる数字、ボーナスの札束による現金支給。それに毎年の社員旅行はヨーロッパ、アメリカ西海岸、ハワイでゴルフと贅沢三昧。しかも費用は小遣いだけで全部会社持ちであった。ジムにも通い出したのもこのころで体型は見る見る締まってきている。でも相変わらず暴飲暴食であった。

その後、栄華を極めたその会社もとうとう左前となり、潮時を見て退社。入試を経て鍼灸専門学校に入学した。この頃煙草を止める。私の中で煙草がそれまでの派手な生活の象徴のように思え、心機一転の意味のみで止めたのである。と同時にクルマも売った。BNW535i、Rover Mini Cooperの二台。人生設計を180度変えてみたかったのである。この頃の体型はまた肥ってきている。煙草を止めたら米がうまい。ついついお替わりしてしまっていたのである。

五年前から自転車に乗るようになってまた急激に痩せている。そしてここ数年見かけ上に変化は無い。自転車効果が遺憾なく発揮されているのだろう。思えばスポーツ自転車は十代半ばから乗り始めたわけだが、成人してからはたまに乗るくらいで過ごしていたことを実に惜しいと感じている。ペダリングは体型維持だけでなく精神面も安定させてくれるように思われるからである。

しかし、このセルフポートレートは誰にも見せたくはないので突然私が死んだ時にどうしようか、それがいささか不安なのである。

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震災後、気持ちが沈んで自転車(のみならず趣味全般)に乗ることへの躊躇いがあった。かたや命を必死に繋ぎ止めようとする人達がいて、こちらでは何の気なしに趣味を楽しんである私がいる。確かに義援金も渡したがそれが反って偽善的な免罪符になっているのではないか。現在進行形の災害に対して私は過去完了形で思ってはいないか。
そこで、先月から毎月の走行距離に一円を乗じた金額を寄付することにしてみた。六月は341円、少ない.少なすぎる。
今月は走るぞと決めている。今日も亀岡往復40キロ。既に今日で200キロである。微力なのは分かっているが何だか力が湧いてきたのも本当である。