良い時間を過ごせた

七月に二年程前から珈琲を家で淹れるようになったと書き込んだのだが、それはそもそも急に人嫌い症状になったのが原因だった。それまでは気の置けない仲間と集まってはワイワイ喋るのが好きだったのだが、どうも不眠が酷くなるにつれ人との関わりに疲れるようになり、気付けば仕事と絵画関係以外ろくすっぽ外にも出なくなり、いわば中年ヒッキーおやじ化してしまった。早朝のジョグと自転車、それと買い物くらいは出かけているのだがデパートなんかへ行くと猛烈に緊張してしまって大汗をかく始末で、ますます外出を敬遠してしまうようになった。まあ、かの吉本隆明も著書で引きこもりを肯定しているのであまり悲壮感はないのだが。
そんなだから少なくとも家にいる時間だけはより良いものにしたいと考えて、先ずはリビングの居心地を改善しようと思い立った。流石に一日家の中にいると退屈なもので厭が上にも読書量と珈琲量が増えるのだがそれに切り離せないのは音楽である。そこでより良い音で音楽を楽しもうと思い立ったのは全くの必然の結果だろうと思う。
思えばこの家を建てた時とほぼ同時に購入したオーディオはパイオニア製の中級品であった。それでも日本橋のS無線で音を吟味して買ったので我が家のわずか十五畳ほどのリビングには充分と言える性能であった。しかし程なくして犬を飼い、その後猫も飼うようになるとそのパイオニアは犬に齧られ猫に引っ掻かれ、無惨にもサランネットはボロボロ、おまけにウーハーのエッジが劣化して音にビビリが出るという、まことに可哀想な事になってしまったのである。
そこで一念発起してこの度オーディオを一新することにした。最高とまではいかなくとも自分の(それと家内の)耳に合う音を探してみたい。そう思って再びS無線の門を潜ったのである。およそ19年ぶりに。
小学校から中学二年のころまで住んでいた実家の二階は六部屋あり兄と僕の部屋を除いた四部屋は下宿に貸していたのだがその下宿生の一人に熊本から上京していたNさんという人がいて、ぼくはこのNさんが大好きで、まさに金魚に糞のように付いて回っていた。思えばNさんもよく邪魔者扱いもせず連れてもらったものだが、その人が大のオーディオ好きで初めて連れて行ってもらった喫茶店の隅っこの席で、小学生の僕相手に延々とオーディオ談義をしてくれた。モダンジャズが好きだったNさんが大学卒業後に就職した先が当時まだ出来たばかりの日本マランツだった。やはりという感じだった。
僕が高校へ進んだあとも度々訪ねて来られ、その頃には少しばかりオーディオへの感心が芽生えていた僕は新聞配達で貯めたお金で買える範囲であればどこのメーカーが良いか教えてもらったりしたのだがNさんの答えはパイオニアだった。そこで僕は迷わずにパイオニアSA8800というアンプを買った。ただその時Nさんが最後に言った言葉が
「お金を貯めていつかきっとマランツを買ってくれ。それまでに沢山の音を聴いて違いが分かれば絶対にマランツが欲しくなるから」
だった。

S無線のSuさんとセットを組む。アンプはMarantz PM8005 、CDプレーヤーは型落ちながら評価の高いMarantz SA8004 、そしておまけのチューナー。
一番悩んだのがやはりスピーカーである。元々ブリティッシュスピーカーに強い憧れがあったので本命はTannoy 、Bowers & Wilkins だったのだが、聴いてみるとB&W 805 よりTannoy Autograph mini から聞こえてくる音が僕には好みだった。持ち込んだCDがBach Collegium Japan のカンタータ集と村地香織のギター「Cavatina」加古隆のピアノ「Silent Garden」、ちょっと捻ってマイルスデイビス、それぞれ聴いてみたのだがAutograph miniの艶やかで澄んだ音色に聴き惚れてしまった。それで考えた挙げ句、予算オーバー覚悟で憧れのTnnoyにしようかと思い、まさに清水の舞台でこれにしたいと告げると、Suさんからの厳しい一言
「PM8005ではAutograph mini を鳴らしきれないでしょうね」
しばし沈黙・・・・そこでSuさんが勧めてくれたのがDali MENTOR MENUET S.E. だった。え、ブリティッシュじゃないのか、と思ったのだが鳴らしてもらったとたんその偏見は吹き飛んでしまった。高音がどこまでも高かくしかも澄みきって上がってゆく感じ。それでいてミディアムレンジのどっしりとした安定感。もちろんこのサイズでは低音を鳴らすには無理があるがそれでも重心のある音でいわゆるドンシャリではない。なんでもMENTOR MENUET S.E.は特別仕様でMENTOR MENUET とは内容が全く違うらしい。コンデンサーと内部配線は上位機種と同じものになっているとのことで、たしかに裏面のターミナル端子は違和感があるほど大型だ。
で、これに決定した。
ということで今回憧れのTannoyはひとまずお預けとなったが大満足の買い物となった。もちろん予算を大きく圧縮できたのも嬉しい限りであった。

昨日は朝目覚めると雪が積もっていた。寒いけれども元旦から始めたジョグを休む訳にはいかないので、出かける。雪道で足を滑らせながら走るのはなかなかスリリングだが、待っていてくれるかたの事を思うと自然速くなる。目的地は3km程先の山の中腹にある「神峰山寺」という古刹である。待っていてくれる方というのはこの寺のご本尊、毘沙門天だ。暗いお堂の中で僕が行くのを毎日じっと待っていて下さる。有り難い事である。
気持ちよく帰宅して汗を洗い流し、途中になっている絵を描き始めたらふと須田剋太の絵が見たくなった。力強いタッチで具象から抽象で精神性の高い絵を描かれた須田剋太。友人のH氏のブログにたしかあった喫茶店須田剋太の絵が掛かってたんじゃないのか、と思い出し調べると、ネット社会は便利なもので東大阪にその店がある事が判明、早速でかけてみた。

ここだ。中に入ってみると

広い空間に沢山の須田剋太の絵や書が架けてある。椅子やテーブルは松本民芸家具に違いない。とにかく落ち着く店内である。美術館とあるので一通り壁の絵を見てまわりすっかり須田剋太の世界にはいってしまった。

珈琲とケーキを注文してしばし堪能する。静かな店内にピアノの曲がさりげなく流されている。
ん、この音はさりげない感じではないぞ。もっと艶のある、実体感がはっきりとでている音ではないか。
思わず音の出所を探すと、やっぱり

Tannoyであった。

全くもって素晴らしい喫茶店である。良い時間を過ごす事が出来た。