フィルム回帰

前回の記事で扱ったWERRA4、気になっていたので実写してきたのですがどうもフィルムを押さえる力が弱く巻き上げ時にパーフォレーションギアが空回りを起こして半数ちかくに二重露光が起こってしまいました。

二重に写っておりますな。とは言えやはりTessar 50mm F2.8の発色には目を見張るものがありますね。特に空の色。あ、空中に大きなゴミが見えますね。EPSON GT-X820 でスキャンニングした際に付いたようです。みっともないですね。
で、WERRA4の名誉のためにもう一枚

WERRA4にはフジのPROVIA100Fを放り込んで写したのですがこれが今日唯一入手できるリバーサルフィルムになってしまいましたね。熟練が必要な外式処理のコダクロームはもちろんの事、好きだったエクタクロームも消え失せてしまいました。やはりデジタル化の大波にフィルム文化が飲み込まれてしまったみたいです。フィルムが無くなることは非常に残念でなりません。2012年のイーストマン・コダック社の倒産はまさにこの時代の流れを象徴する出来事といえますね。でもリバーサルフィルムは何としても残しておいてほしいのです。といういのもステレオ写真にはこれがないとどうにもなりませんから。

僕もご他聞に漏れず普段はデジカメを使って写真を撮っています。でも最近なんか気分が乗らない事が多くなってきていました。よくよく考えてみると電気的に処理されたものを写真とは言い難い気持ちがあることが分かりました。所詮デジカメは家電製品です。自分の感じたものを表現するプロセスに電気的なものを介入させることへの違和感が拭えないのですね。写真表現はあくまで印画紙の上に自分の思いを焼き付ける行為であってディスプレイ上でサクサクッと作るものではないのだと。
ということで、暗室を復活しました。引き伸ばし機は今まで使っていたフジB690が光線漏れを起こしてしまいお釈迦になったのでサブ機のF670MFを据えました。どうせ35mmで四つ切り以下なのでこれで充分でしょう。
一応カメラはご覧の二台

手前がNikonF100、左奥がF3hpです。F100が最近気に入って使ってます。一世代前のフィルム機のフラッグシップF5の機能そのままをギュッと小さくしたカメラでモードラが最初から付いたF5のデカさに躊躇していた僕が速攻で買ったカメラです。乱視が進んだ目にAF機能が有り難いのとF3にはないスポット測光が付いたのがマニュアル派には強い味方ですね。そしてやはりカッコいいボディ。たぶんこのF100の造形がその後のNikon Dシリーズのフォルムの基本になったのではないかと思うくらいです。フィルムは当然モノクロ、フジPRESTOが長尺でまだ数巻残っていますのでそれを使い切る事にしてその後はACROSに切り替えます。というかそれしかないんです、モノクロフィルム。コダックT-MAXがまだありますが、使った事がなく現像処理にまた試行錯誤しないといけないのでひるんでいるんです。

話は変わりますが同じフィルムつながりで、最近テレシネという言葉を聞くようになりまして、つまりフィルムで撮影した動画をデジタルに置き換えることをテレシネと言うらしいのですが、これを非常に興味深く思っているんです。かなり以前ビデオカメラが世に出る前、8mmにも現をぬかした事がありその時のカメラや映写機、スプライサーがこのテレシネ作業をすることで再び陽の目を見る事になるやも知れないと思い、押し入れの奥から取り出してみました。

じゃ〜ん、手前がNikon R10 SUPER 左がR8 SUPER です。どちらもスーパー8仕様です。シングル8と違いスーパー8は操作部がカメラ左側にくるので撮影には非常に扱いやすいですね。それにしてもこうして見るとやはりNikon、二台ともカッコいいです。たしか後にも先にもNikonが手掛けたスーパー8カメラはこの二機種だけだったように思います。(あ、スーパーズームというのがあったかな)ただR8は露出計にH-D、いわゆる今は無き水銀電池を使わねばならないのとEEロックマニュアルダイアルが全面のレンズ下にあって使いづらいので、やっぱりここはひとつ真打ちR10にご登場してもらわなくてはならないでしょうね。それにしても二台ともF2フォトミックやF3とデザインに共通点があるように思いますね。さすがこの時代のNikonデザインはワクワクしますね。(ちなみに最近発売されたデジカメDfに食指が動かないのはわざとらしさがいやらしいと思うからなんですな)
幸いスーパー8フィルムはいまだに販売されているということ(さすがにサウンドはなしですが)ですので一丁撮影してみましょうかと思っています。
ちなみに昨日から沢山の撮影済みフィルムと購入した映画(ほとんど蒸気機関車もの)を懐かしさ一杯で観ています。中には秘密で買ったちょこっとエロいものもあり、これがなかなか面白いです。

WERRA 4 と言う一つの結晶

 写真に凝りだすとおおよそ二つの方向に進むようだ。
 一つは写真技術を高めて腕を磨き、公募展での入選を目指し、あわよくばプロフォトグラファーにという真っ当な方向。もう一つは沢山の写真機に囲まれた生活がしたいと言うやや屈折しているとでも言うべき方向である。
 僕はほとんど後者の範疇にはいるだろうと思う。写真を撮らない訳ではない。月に何度かは撮影に出かけているし一回の外出で100ショットくらいは撮って帰ったりしているし、自宅には狭いながらも暗室を拵えてあるし、以前はアンセル・アダムスのゾーンシステムを学習してフィルム上で白から黒までの階調を表現できる現像方法も見つけたりしたものだが。
 それでもカメラが好きだ。それも少し変わったカメラが大好きだ。LeicaよりCasca2、Periflex、Gamma、Opema II、といったマイナーだが創意に溢れた機械が好きなのである。中でも旧共産圏で作られたカメラにはソソラレルものがある。旧ソ連製のレンズの超高性能さは周知のことであるし。
 今日は仕事でちょっと調べておきたい事があったので本棚で探し物をしていたら隅っこからコロンと出てきたカメラがあった。

 それがこれ、WERRA 4 である。特徴ある愛すべきカメラなので少し紹介したくなった。生まれは多分昭和31年頃なので僕よりちょっと歳上である。当時の東ドイツ、Jena(イエナ)のCarl Zeiss 社で製造され、0〜5型、最後期のWERRA Matic といったところが知られている。0型、1型に(単にWERRA)にブライトフレーム入りファインダーと単独セレン式露出計がついたものが2型、それに連動距離計、交換レンズ式、しかし露出計無しのものが3型、さらに連動距離計、露出計、レンズ交換式、ファインダー内に35、50、100mmのフレーム枠が付いたものが4型なのである。ちなみに5型はファインダー内下部に連動露出計の指針が組み込まれ、より操作性が優れたものとなった。ただ5型はグッタペルガ(バルカナイト)が黒色のみだったように思われ、形も丸みを帯びてややズングリとした印象だった。

 上面にはレリーズボタンと露出計の窓のみというシンプルさで直線的で簡潔なイメージであるが、その簡潔さは独特の優れた機構が支えている。実はフィルム巻き上げとシャッターチャージはレバーではなく鏡胴のリングを60度ばかし捻って行うのだ。実際に使ってみると巻き上げ動作が驚くほどスムーズ。左手でリングを下から持ってむしろカメラボディを右に捻る感じで完了。面白いアイデアで僕がWERRAを愛する所以はまさにここにある。どこのメーカーも考えなかった機構を取り入れるという気概に満ちているではないか。

 ご覧のようにレンズ交換式である。Cardinar 100mm F4.0, Tessar 50mm F2.8, Flektogon 35mm F2.8 の3本。Cardiner 100mm はさすがにこのカメラでは不便を感じるがFlektogon 35mm はの写りも秀逸で是非手に入れておきたいレンズなので気長に探してみようと思う。シャッターはビハインド方式5枚羽根、ZeissおなじみのSYNCHRO-COMPUR 1/500。この4型は1/750まで切れるPrestor RVSシャッターが付いているのもあるが僕のものはSYNCHRO-COMPURが付いている。露出計窓には蓋が付く。蓋をして屋外、開けて室内や暗い場所に使う。よくこの窓の使い方は難しいというかたがおられるがそれは間違い。閉めたままでは鏡胴にある右側三角印に指針値を合わせ、開いた時には左側三角印に合わせる、ただそれだけの事だ。

 標準レンズには本体と同色のカバーが付いているのだが、これがまた面白くてキャップを開け反対にしてレンズに付けるとフードとなる。こんなところも大変合理的に考えてありユニークだ。
 またWERRA 4 のファインダーはミラーではなくプリズムを使うという大変な凝りよう。なんと視度調節機能もあり非常に明るくて見やすいので上下像合致式でのピント合わせも楽である。各フレーム枠もはっきり見える。

 レンズはもちろんCarl Zeiss Tessar 50mm F2.8 でこれが猛烈に良く写る。ここで作例をお見せできないのが残念だが開放から抜けがよくまた色乗りがしっかりとして特に青空を写すと吸い込まれそうな独特の発色をする(フィルムにもよるが)。モノクロ時代のレンズは個性的な発色をするものが少なくない。カラーフィルムを想定していないためだがそれが反って良い味わいとなる。このTessar がそれの良い見本だ。ただなにぶん古いレンズなので状態の悪い個体も多く、このレンズに巡り会うまで3台のWERRAが必要だった。以前見つけて入手したWERRA 5 は交換レンズを含め3本ともだめであった。オールドカメラ漁りの使い古された苦心談なのだが。
 とにかく懲りに凝ったカメラである。鏡胴の各リングはアルミの削り出しを美しく磨いてあり、フード兼カバーにもアルミの薄いリングがあしらわれてその丹念な仕事ぶりに惚れ惚れとする。似たようなレンジファインダーカメラとして思い浮かべるのはMINOLTAがライカと組んで発売した名機CL 、CLE があるが、それとはまた一線を画したこだわりの美しさを感じる。というかこのカメラの設計者はかなりのカメラオタクだったのではあるまいか。
 両手の中にすっぽりと収まる大きさにこれだけの機能と性能を美しく詰め込まれて、60年近い年月を経てもこの小さな結晶のようなカメラは愛くるしく輝いている。
 コンパクトデジタルカメラもいいがたまにはこんなカメラをぶら下げて街を歩くのも悪くない。中古カメラ店で見つけたら是非手に取ってみてほしい。

何やら変な方向に進んでるような

一昨日、小さな包みが送られてきた。


お隣りは中国からである。
中身はこれ

なんだカメラの部品か、その通りなのだが実はこれ・・・


Nikon FフォーマットをM4/3に変換するアダプターなのである。で、これを使えばご覧のようにM4/3機のBlackmagic Poket Cinema Camera (BMPCC) にNikonレンズが引っ付くのである。もちろん電気接点はないのでマニュアルレンズ(ATでもフォーカス操作をマニュアルで使えば問題ないが絞りリングすらない最近のレンズはちょっと・・・)を使うことになるが、そもそもずっとマニュアル機で写真を撮ってきたからかえって埋もれていたレンズたちにもう一度陽の目を見させてやる事ができることが何より嬉しい(あ、ちゃんとD700では使ってます、誤解なきように)
ただ、このアダプター、ちょっと精度が低いようでちゃんと取り付けてもヘリコイドを触るとガタがある。まあ、撮影にはいれば気にならないだろう、ご愛嬌だ。破格のアダプターなので文句は言わない。
BMPCCでNikonレンズが使えるのが嬉しい。何しろマニュアルニッコールレンズは家中探せば20本以上は出てくるはずだから。中学生の時に富士山頂へ父のPENTAXを持って行って以来、モノクロ写真が好きで高校生で親戚からF2を貰い受けてシャッターが壊れる程写しまくり学校の写真部で暗室を借りて現像しまくって、とうとうF3を手にして以来Nikonだけでやってきたのだ。今もF3は不動になったのもあわせると3台のボディが防湿庫の中に眠っている。ライカもバルナックIIIf(ブラックシンクロ)、M32台(ダブルストローク、シングルストローク)、M7、それにレンズ数本持ってはいるがバルナック以外箱に入ったきりで使ってはいない。
とまあ、家人があきれる程のカメラ好きなのだが肝心の写真ときたら公募展だったかに一度佳作入選したくらいの下手糞なので、不毛な蒐集と言わざるを得ない。
ところが最近、動画撮影にハマりだした。それはBMPCCが世に出たからである。BMPCCって劇場映画スタイルの13ストップダイナミックレンジを持つスーパー16センサーサイズ、1080HD解像度のProRes 422(HQ)(lossless CinemaDNG RAWも可)というまさにプロ用デジタルフィルムカメラなのである。
ただ目下のところ我が家の猫どもを撮るだけなのだが、これがなかなか難しくて面白い。もっとカラーグレーディングを勉強して映画のような空気感のある動画が作れたらいいなと思ってる。

ついでに虫干しがてら元箱入り以外のレンズ達をバックに記念撮影。カメラにはNikonレンズ唯一、点光源を点として写せる手磨き(天体観測用)レンズ 58mm Noct-NIKKOR F1.2 S を装着。どこかドヤ顔のBMPCC !(笑)
あとはちゃんとリグを組んでフォローフォーカス(ピント合わせ機)だけは何とか組みたい。なんせ老眼に加えて事故で指先が不自由なもんで、えへへ。


しかしなんか本筋から離れて行ってるように思うのは気のせいか?

良い時間を過ごせた

七月に二年程前から珈琲を家で淹れるようになったと書き込んだのだが、それはそもそも急に人嫌い症状になったのが原因だった。それまでは気の置けない仲間と集まってはワイワイ喋るのが好きだったのだが、どうも不眠が酷くなるにつれ人との関わりに疲れるようになり、気付けば仕事と絵画関係以外ろくすっぽ外にも出なくなり、いわば中年ヒッキーおやじ化してしまった。早朝のジョグと自転車、それと買い物くらいは出かけているのだがデパートなんかへ行くと猛烈に緊張してしまって大汗をかく始末で、ますます外出を敬遠してしまうようになった。まあ、かの吉本隆明も著書で引きこもりを肯定しているのであまり悲壮感はないのだが。
そんなだから少なくとも家にいる時間だけはより良いものにしたいと考えて、先ずはリビングの居心地を改善しようと思い立った。流石に一日家の中にいると退屈なもので厭が上にも読書量と珈琲量が増えるのだがそれに切り離せないのは音楽である。そこでより良い音で音楽を楽しもうと思い立ったのは全くの必然の結果だろうと思う。
思えばこの家を建てた時とほぼ同時に購入したオーディオはパイオニア製の中級品であった。それでも日本橋のS無線で音を吟味して買ったので我が家のわずか十五畳ほどのリビングには充分と言える性能であった。しかし程なくして犬を飼い、その後猫も飼うようになるとそのパイオニアは犬に齧られ猫に引っ掻かれ、無惨にもサランネットはボロボロ、おまけにウーハーのエッジが劣化して音にビビリが出るという、まことに可哀想な事になってしまったのである。
そこで一念発起してこの度オーディオを一新することにした。最高とまではいかなくとも自分の(それと家内の)耳に合う音を探してみたい。そう思って再びS無線の門を潜ったのである。およそ19年ぶりに。
小学校から中学二年のころまで住んでいた実家の二階は六部屋あり兄と僕の部屋を除いた四部屋は下宿に貸していたのだがその下宿生の一人に熊本から上京していたNさんという人がいて、ぼくはこのNさんが大好きで、まさに金魚に糞のように付いて回っていた。思えばNさんもよく邪魔者扱いもせず連れてもらったものだが、その人が大のオーディオ好きで初めて連れて行ってもらった喫茶店の隅っこの席で、小学生の僕相手に延々とオーディオ談義をしてくれた。モダンジャズが好きだったNさんが大学卒業後に就職した先が当時まだ出来たばかりの日本マランツだった。やはりという感じだった。
僕が高校へ進んだあとも度々訪ねて来られ、その頃には少しばかりオーディオへの感心が芽生えていた僕は新聞配達で貯めたお金で買える範囲であればどこのメーカーが良いか教えてもらったりしたのだがNさんの答えはパイオニアだった。そこで僕は迷わずにパイオニアSA8800というアンプを買った。ただその時Nさんが最後に言った言葉が
「お金を貯めていつかきっとマランツを買ってくれ。それまでに沢山の音を聴いて違いが分かれば絶対にマランツが欲しくなるから」
だった。

S無線のSuさんとセットを組む。アンプはMarantz PM8005 、CDプレーヤーは型落ちながら評価の高いMarantz SA8004 、そしておまけのチューナー。
一番悩んだのがやはりスピーカーである。元々ブリティッシュスピーカーに強い憧れがあったので本命はTannoy 、Bowers & Wilkins だったのだが、聴いてみるとB&W 805 よりTannoy Autograph mini から聞こえてくる音が僕には好みだった。持ち込んだCDがBach Collegium Japan のカンタータ集と村地香織のギター「Cavatina」加古隆のピアノ「Silent Garden」、ちょっと捻ってマイルスデイビス、それぞれ聴いてみたのだがAutograph miniの艶やかで澄んだ音色に聴き惚れてしまった。それで考えた挙げ句、予算オーバー覚悟で憧れのTnnoyにしようかと思い、まさに清水の舞台でこれにしたいと告げると、Suさんからの厳しい一言
「PM8005ではAutograph mini を鳴らしきれないでしょうね」
しばし沈黙・・・・そこでSuさんが勧めてくれたのがDali MENTOR MENUET S.E. だった。え、ブリティッシュじゃないのか、と思ったのだが鳴らしてもらったとたんその偏見は吹き飛んでしまった。高音がどこまでも高かくしかも澄みきって上がってゆく感じ。それでいてミディアムレンジのどっしりとした安定感。もちろんこのサイズでは低音を鳴らすには無理があるがそれでも重心のある音でいわゆるドンシャリではない。なんでもMENTOR MENUET S.E.は特別仕様でMENTOR MENUET とは内容が全く違うらしい。コンデンサーと内部配線は上位機種と同じものになっているとのことで、たしかに裏面のターミナル端子は違和感があるほど大型だ。
で、これに決定した。
ということで今回憧れのTannoyはひとまずお預けとなったが大満足の買い物となった。もちろん予算を大きく圧縮できたのも嬉しい限りであった。

昨日は朝目覚めると雪が積もっていた。寒いけれども元旦から始めたジョグを休む訳にはいかないので、出かける。雪道で足を滑らせながら走るのはなかなかスリリングだが、待っていてくれるかたの事を思うと自然速くなる。目的地は3km程先の山の中腹にある「神峰山寺」という古刹である。待っていてくれる方というのはこの寺のご本尊、毘沙門天だ。暗いお堂の中で僕が行くのを毎日じっと待っていて下さる。有り難い事である。
気持ちよく帰宅して汗を洗い流し、途中になっている絵を描き始めたらふと須田剋太の絵が見たくなった。力強いタッチで具象から抽象で精神性の高い絵を描かれた須田剋太。友人のH氏のブログにたしかあった喫茶店須田剋太の絵が掛かってたんじゃないのか、と思い出し調べると、ネット社会は便利なもので東大阪にその店がある事が判明、早速でかけてみた。

ここだ。中に入ってみると

広い空間に沢山の須田剋太の絵や書が架けてある。椅子やテーブルは松本民芸家具に違いない。とにかく落ち着く店内である。美術館とあるので一通り壁の絵を見てまわりすっかり須田剋太の世界にはいってしまった。

珈琲とケーキを注文してしばし堪能する。静かな店内にピアノの曲がさりげなく流されている。
ん、この音はさりげない感じではないぞ。もっと艶のある、実体感がはっきりとでている音ではないか。
思わず音の出所を探すと、やっぱり

Tannoyであった。

全くもって素晴らしい喫茶店である。良い時間を過ごす事が出来た。

珈琲道

二年ほど前から、また珈琲を淹れるようになった。それまでも毎日5〜6杯は飲んでいたのだが、きちんと豆を挽いて温度管理をした湯で時間通りにドリップするようになったのが二年前からである。巷では「サードウェーブ」と称した新しいスタイルの淹れ方、珈琲店アメリカからやってきて珈琲好きの心を躍らせているのだが、僕にはどうも馴染めなくて逆に昔ながらのネルドリップに憧れている。その通りにやれば誰でも同じ味が楽しめるフレンチプレス,エアロプレスは確かに素晴らしいと思うのだが、一杯一杯味が変わるのを上手く調整しながら淹れるのが面白いと感じるのである。(最近京都ではこのネルドリップが見直されているらしく京都からフォースウェーブが来るかもしれんという噂も。確かにかの焙煎家オオヤミノル氏が絡んでおられるお店もたしかネルドリップだったか)
で、どうにかこうにか自分が美味しいと思える淹れ方を見つけられるようになって(コーノの円錐ペーパードリップだけど)、気に入った豆(グァテマラ某農園)を気に入った風に焼いてくれる(フルシティ手前)焙煎屋さんも近くに発見し、僕だけのメソッド(笑)が構築されてきたように思う。
 そうなるとまたコレクターの血が騒いでくるのである。思えばカメラレンズ収集に始まり、中国茶道具、揃茶道具等々、広い意味では自転車、バイクもそうかも知れないほど僕は集めるのが好きなんだ〜、という訳で今回はカップ、ソーサーを集めている。特に北欧スウェーデンノルウェー辺りのアラビア、グスタフズベリ、イッタラを収集しているのだが、その中でどうしても欲しい逸品があった。グスタフズベリ「タヒチ」である。鮮やかな南国の花達をあしらった美しいカップなのだが、ネットで探しても画像ばかりで在庫なし、たまにあっても一客3万円以上という価格なのでちょっと手が出ない。でもそうなると余計欲しくなるのが人情というものというおなじみフレーズで探すこと数ヶ月、やっとヤフオクで見つけて即落札。最近、ちゃんとした店で買う習慣が復活したのでヤフオクも久しぶりで解除したプレミア会員をもう一度復帰させての落札であったが(もちろんまた即解除する)今日現物が届いて大満足。ソーサー裏部分に三カ所ホツが見られるので価格の18000円も適正だろう。20客めのカップソーサーがこんな素敵な品になったのは嬉しい限りである。

※文中にある京都の喫茶店は「KAFE工船」です。ご存知のご仁もおられるかと思いますが隣が自転車工房となっており、サイクリング帰りに是非お勧めです。

夏越の祓えと京北の癒し

6月の晦日の夏越の祓えでは、いつも京都の松尾大社で茅の輪をくぐっている。子供の頃この辺りで育ったので高槻に住んで久しい今でも松尾は地元という意識が強くあるからだろう。いまだに氏子でもあるし。
本当は明日が晦日だが今日のほうが天気が良さそうなので午後グッティで訪ねてきた。

左足から跨いで左、右、と廻って計三回くぐるのが作法なんである。
水無月の夏越の祓する人は千歳の命延というなり」と唱えながらくぐる良いそうな。
このあと本殿を参拝しミニチュア茅の輪を授かる。入り口で水無月が売られていたので購入。
茅の輪と水無月はワンセット、これで無事に夏が越せるといいが。

なんともいい感じの仕上がりですな、我がチョチョリーナV7。今年からエンジンも新たになりトルクがアップした分加速が良くなった。ただそれが低速走行時のギクシャク感を強める原因になっているようでちょっと気を遣わせる。だがそれを差し引いてもV7の走行感は気持ちよい。縦置きVツインのドコドコ感はよく謂われるところだが、スロットルを捻ってフル加速するといきなりエンジンが豹変する。実に気持ちよい。
とはいえ50馬力という非力さなのでハイスペック国産マシンとは比べてはならないが。

そのあと今は娘に住まわせている嵐山の家の前を通り、周山街道へでて高雄から一路北へ。

京北町、弓削にある京蕪庵で一休み。冷コー飲んでぼ〜っと景色を眺めてたいへん癒された。
土産に買った「納豆餅」をサイドバッグに詰めて日吉まわりで帰った。
京北で旨いもんといえば周山「登喜和」の一人すき焼きがまた食べたくなってきた。

ずっとそこにあり続けて欲しい

後になってとても大事だったと分かるものに限って、いつのまにか姿を消しているものだ。たとえば若い頃に読んだ書物の中にいまどうしても確認したい文章があったとして、そういう書物に限っていつのまにか処分していたりする。誠に後悔すること度々である。最近もイタリアのことを調べているときに(愛犬を失ったことで、いよいよ家内とのんびりヨーロッパを旅する計画が持ち上がってきたので)ボマルツォというところにある奇怪な庭園のことを書いた本があったことを思い出し、たしか三階の屋根裏部屋に仕舞ってあったはずだと昨夜書物の山をひっくり返してみたのだが結局見つからず。いつの間にか処分してしまったらしい。しかし見つからないとなると余計見たくなるのが心情というもので、ネットを探しまわってみたが、ない。
マンディアルグ著 澁沢龍彦訳「ボマルツォの怪物」、どなたかお持ちじゃないでしょうか? あぁ、も一回読みたい。
自然界では事態はもっと深刻である。いわゆる絶滅危惧種というものが年を逢うごとに増えていると言う。例えば植物。僕の子供のころ、河原に当たり前に生えていた紫の花の丁字草、里山には笹百合が良い香りを棚引かせていた。気付いた時には丁字草の代わりにセイタカアワダチソウ、笹百合に代わってタカサゴユリが群茂している。原風景は追憶の彼方に押しやられてしまった。
さてその代表的な絶滅危惧植物にクマガイソウがある。平家物語でご存知の熊谷直実のまさに母衣を被った姿に因んだこの山野草は、その優雅な姿が珍重され乱獲に次ぐ乱獲の末、とうとう今では関西一円どこの山を探してもまず見つからないほど貴重なものとなってしまった。クマガイソウは直接人間によって滅ぼされようとしている悲しい例として心に停めておかねばなるまい。

静岡で開催される模型の祭典「ホビーショー」を見に行くつもりだったが天気が不安定だという予報もあり、気持ちのなかにしんどさもあったので、予定を変更してちょうどこの時期に開花するクマガイソウを見ようと、GUZZIを駆って今では非常に珍しい自生地を訪ねてみた。9時に自宅を出発し枚方から精華町へ出て、木津から笠置、柳生と走り針テラスを通り過ぎ榛原から伊勢本街道を東へ。ドコドコと2時間半かけてやっと到着。途中コンビニトイレ休憩一回のみだった。

ありました。少し時期が遅かった感もあるが綺麗に咲いている。やはり自生の花は美しい。

クマガイソウは南向きの斜面に咲くことが多く、その花は全て同じ方角を向いて咲くというなかなか規律正しい植物である。
奈良の山の中には細々ではあるがまだこんな群生が存在している。どうか心無い乱獲者に荒らされることなくこの先もずっとここで咲いていてほしいと願わずにはおれない。
お昼を回っていたので食事をしようと付近を探すも見当たらず、やはりまたコンビニでサンドイッチと珈琲を摂る。じつは一軒ライダーズカフェがあるのだが何とはなしに僕の趣味とは違うので通りすぎた。ま、今日は走ることが楽しいので良しである。
帰りはそのまま来た道では面白くないので榛原から真っすぐ西へ向かって長谷寺、吉野を通り過ぎ明日香あたりから南阪奈に乗っかって尚真っすぐ堺まで走る。絵画教室のスケッチ会を堺の大浜公園付近にしたいと考えていたのでその下見がてら。で、描きたいと思っている旧堺燈台は公園からちょっと遠く、建物としては面白いが風景としてはちょっとかなという感じなのでわざわざここまで来ることもないだろうと思ったり思わなかったり。

それでも写真にすればなかなか良い感じであるが。この燈台もまた絶滅危惧種、いやもうすっかり絶滅してしまって今は剥製のようになった燈台でする。
3時を過ぎていよいよ帰路につく。堺に来たらこれだろうと「かん袋」のくるみ餅を買って帰る。帰りに立ち寄るいつもの珈琲豆屋のお姉さんにもお土産にと一つおまけに買って帰る。コーヒ豆屋には5時閉店ぎりぎりに到着し、オーナーの美人のお姉さんにくるみ餅を渡してガテマラ200gを買い、しばらく雑談して帰る。
GUZZIのシールドとエンブレムがやっとこさ届いたらしい。が、フロントフォークの交換品がまだこない。そこでちょっと先になるがフロントフォークが来次第、初回点検といっしょにそれらの取り付けもしてもらうことにした。めんどくさいから一度に済ませようと思った訳である。だからGUZZIの完成形お披露目はまだ少し先になりそうである。