母と正月を過ごす

このところ毎年、年越しは実家の母と二人で過ごしている。九州の兄が帰京するのが本筋なんだろうが、いかんせん兄は病院の救急に勤務しておりはっきりと休みが取れない。よって当然私が実家に帰って母と正月を迎えることになる訳である。
去年の大晦日は珍しく関西でも大雪に見舞われ、高槻のうちを出るころには一旦道の雪は溶け出してはいたものの、午後になって気温が下がってくるとそれが凍りだした。京都駅に着いたころにはシャーベットより硬く積もったと寒さに暗澹とした気持ちになり、百人ほどのタクシーの列を無言のまま並んでいた。
重いおせち料理をぶら下げて30分以上タクシーを待つ。回りは家族旅行やカップルの旅行で京都へ来たと言う風情でなにか同化出来ない壁のようなものを感じながら、やっと来たタクシーに身を滑り込ませた。私の実家は京都の中心より西の方角に位置している。阪急で言うところの「西院」駅ちかくである。寺とは名ばかりの小さな大正時代の京風住宅である。所謂町家ではない。町家とはその家で商売やモノ作りをしていた商家や職人の住まいを総じての呼称であるからだ。実家の構造はそれに準じているが全体が小さくもっと安物である。ただ、居住まいは割ときちんとしていて、初夏になれば建具替え、葦簾の衝立、藤敷きをして涼しい演出をし、秋になれば雪見障子、京花紙の衝立、絨毯などを使って冬ごしらえをする。そんな一軒を父が大学通学中に借り、それがそのまま我が故郷の寺になったのである。それが私の生まれ、そして育った家である。狭い空間だが私には居心地がよいことこの上ないところである。
晦日、荷物を持って玄関の門のベルを鳴らす。認知症が進んですっかり記憶が出来ない母が、それでも覚えていてくれて満面の笑みで私を迎えてくれた。数度抱擁。手をさする。
その夜は年号が変わるまで、去年買った大型のビエラの電源をNHK紅白歌合戦、ゆく年来る年が終わるまで点けっぱなしにして喋った。さっそく持参した国乃長粗絞り四合飲む。母の話は堂々巡りだ。十分後にはまた元に位置に戻る。いつもは追号を煮やすこともあるが、この日は何の引っかかりもない。何度戻っても素直に頷けた。話のスパイラルもそれはその話手の特別な心象があるから起こりうると思えば、母が訴えたいことをなるべく聞き漏らさずにいたいという気持ちのほうが強く意識される。既に心地よい酔いが回ってきたようだ。多いに話して笑った。一時を回って母と布団を並べて眠りに就いた。
良く元旦は眠る母をそっとしておいて一人顔を洗ったりして身繕いをして外に写真を撮りに行く。昨夜は相当降った。京都では非常に珍しい雪だった。
道は未だシャーベット状に凍っており非常に滑りやすい。
裏の公園もご覧の様だったので、今日は初詣は取りやめにしてうちで寝正月を決め込むことにする。雑煮を作り(我が実家の雑煮は炒子と剣先烏賊の出汁から取った澄ましに丸餅をいれる簡便なものでしかも美味い。何でも祖母がたの岡山県瀬戸内海地方に伝わる雑煮だそうだ。私がずっと京風雑煮が嫌いでいるのにはこのあっさり、すっきりとした出汁の味があるからだろう。あまり味に自身がなかった出汁だが母は美味しいと言ってくれ、それがボケからくる搾話であったとしても優しさが溢れた言葉に違いない。お節料理は今年も料亭のを買った。二人前二万八千円。
でも何となく、値段の割には正月らしいものが入ってなかったりして、やや不満の残るところもある料理だった。やはりお節料理そのものが家庭料理で、その土台が違うのだと改めて思った。それでも母にはポイントが高かったようで、結構箸が進んでいたようだ。これなら文句は一言もない。
遅い目の食事となったが、さすがにテレビを付けながらの世間話でも小腹が減ってきた。そこでMKタクシーを呼んで賑やかな所へ連れて行ってもらおうと思ったが、生憎親切な運転手さんも正月元旦に店を開けている所を知らず、おまけに母のリクエストが洋食だったので余計探しまわったが見つからず、ふと私の「ホテルなら開いてますよね」という言葉をきっかけに正に砂漠にオアシス、難破船に穏やかな入り江、そんなような面持ちで京都ホテルオークラの玄関へ。ドアマンに説明してすぐに2階のレストラン ベルカントの窓際席へ。河原町の街路時に点されるイルミネーションを見ながら料理の前にワインを早速開ける。LAROCHE 3grappes Rouge DE RA CHAEVLIÊLE 2008。
これが大正解。3500ほどの安いワインだがその味はふくよかでタンニンの押さえられた甘い舌触りにどこか熟れた杏の薫りが漂うように思った。また途中注いでくれるホール係のお嬢さんの美しさ、可愛さについついピッチも上がっていった。
料理もオードブルからオニオングラタンスープという濃厚なものに舌を楽しませ、その後魚料理(グジ?)、近江牛の一番柔らかい所だけチョイスしてバルサミコのようなソースで頂くメインとどれも小品とは言え気が置けない一品だった。母も大満足でまた連れてきてほしいと要望あり。分かった必ずといって、「先月の来たがな」と独り言を心で言う。実は母はこのレストランの従業員には顔が通っているのである。人間カワユく老いねばならないと密かに思う今日このごろである。エントラントではバイオリンと琴の生演奏が響き渡り、いかにも新春の言祝ぎを醸し出しているようだ。このホテルには数度フレンチを食べに来ておりその後ラウンジで一杯シングルモルトを静かに流し込むというのが私流の使い方だったが今日は母も一緒なので諦めて珈琲飲んで退散する。
そして昨日、二日。天気が快方に向かったということもあってこの日は頑張ってお節料理とお雑煮を早めに食べて、MKタクシーを呼ぶ。正月なので捕まりにくいということだったが案外すんなりと来てくれた。知恩院から大谷祖廟を回る。
知恩院についた時青空に飛行船が浮かんでいた。ふと1968年の年を思い出す。東京オリンピック開催に湧く日本上空に ♪きどから〜♪ と大音量を立てながら日立の飛行船が飛んだものだ。良く追いかけて走った(自転車で)記憶がある。ちなみにその時の「キドカラー」やっと売り出してきたカラーテレビの名前なんであるが、このキド、希土類のキドで今のレアアースのことでなんである。
供花と線香を買い供える。辺りは沢山の人でごった返していた。ちなみに知恩院の線香の煙はどんなに身体に擦り付けてもご利益はありません、念のため。宗教イコールご利益と言う浅はかな考えの人が多いのには驚くばかりだが、線香の煙はそんな事情もつゆ知らずゆらゆら漂っていた。
納骨堂は有名な大梵鐘の向かって左手の階段を上った所にある。脚の悪い母の手を引いて何とか前まで往き手を合わせる。ここに母の父母が眠っている。母の実家は桂の大百姓であった。子供の頃阪急桂駅西口から遥か西の山の麓にあるおばあちゃんのうちまで他人の土地を踏まなくても帰れた。それほどの畈畝、畑があったのだがその後母の兄が放蕩して殆どの土地をなくした。そのいえが浄土宗だったのだ。母の実家は広く、離れの部屋へ行くにも広い庭をに屋根付きの廊下が横切っており、あまり長いのでその途中に「釣り部屋」と称する小部屋打がえてあり、その真下を池に錦鯉が悠々と泳いでいたりした。相当豪壮な佇まいだった。私ののんびりした心根は多分この環境から育まれたものらしいと思っているので、ここに眠る祖父母にしっかり手を合わせている。
宗祖法然上人の八百回忌大法要の立て札が立つ大門。華頂山の扁額も春の光に初々しい。
さて、次にこれは我が実家の宗派、大谷派の大谷祖廟を目指す。といっても先ほどのタクシーに待っていただいていたのだ。車は一旦東大路、祇園石段下の喧噪を超え、大谷祖廟に向けて上って行く。たくしーを下りたところが祖廟の北門なのでそこからは歩いてすぐに到着。
去年の盂蘭盆会には修復のため全体を覆いに隠されていたが、この正月にはまにあったようだ。見事にその輝きがよみがえった。全国千六百万の門徒のためにも去年のようなうらぶれた姿はやはりいかんであようね。やっと宗祖親鸞上人にも顔向けが出来たということだろう。ただし、親鸞上人は果たしてこれを、今の真宗のあり方を、喜ばれただろうかはなはだ疑問であるが。まあ、美しいものに悪い気はしないのが普通なので、これも時間が経てばきっと馴染んで行くのだろうと一人合点して手を合わせていた。
さて、帰る段になって、母が何か飲み物が欲しいと言い出したので、これ幸いに長楽館へ滑り込んだ。というのもここのカフェではお正月二時以降限定で可愛いお菓子「ガレット・デ・ロワ」を作ってくれる。これは金紙で作った王冠(東方の三博士)をのせたフランジアーム(アーモンドクリーム)のパイで何とその中にフェーブ(そらまめ)という可愛い陶器のおもちゃが入っているのだ。これはフランスの正月定番らしくそのフェーブによって一年息災になると言われているのだそうだ。しかし、長楽館は明治の煙草王、村井吉兵衛の別荘だった建物。どうかその村井氏の業績を忍んで全館禁煙にだけはしないでほしい。タバコへの偏見はここにもあるとがっかりした。私自身は吸わないが、タバコはそんなに悪者なのか疑問なのだ。それより依存者250万人のアルコールを規制すべきだろう。海老蔵の事件もあり酒は危険行為を伴うことがあるし、日本人の酒の上の過ちに対する異常な認可がなす悪癖は煙草の比じゃないだろう。
元テラスだった部屋でのんびり頂く。ちなみに私のフェーブは緑の運搬車だった。今年は緑多き一年になるのかな?畈畝は順調なのかな?母と二人カフェオレを頼んで暖まりながらゆったりした時間を過ごす。
そうして喧噪の石段下界隈を後にしてタクシーに乗り込んだ。この運転手さんは女性の方で話し好き。高齢者介護のことや通院のこと、親子別生活の利点などの話してしているうちに家に着く。意外と速かった。
暫く休んでいたが、さすがにお節料理も餅も全て食べてしまって今夜の食事がない、困ったということで母にもう一度出るかと聞くと二つ返事で付いて行くと言う。よし、それならとコートを着直し西院駅界隈の焼き鳥、串カツの店の暖簾を潜る。そこで母も私もものすごく食べた。母がこんな食べ方をするのは殆ど見たことがないというほど食べていた。思うに父とはこういう店には来なかったのだろう。楽しい楽しいと連発していた。私も嬉しくなって生中4杯を立て続けに飲み、串15本、焼き鳥10本、刺身七品盛り合わせ、その他単品と食べ続け、最後は〆の焼き明太子お茶漬けでゴール。店を出た二人は幸せな気分で手をつないで歩いてました。
母を実家に届け、少し休んで高槻に帰宅。
阪急からの帰り、街の灯りがとても奇麗に見えたので、ついつい馴染みの店に。ちょこっとビールとハイボール飲んで仕上げました。

今日は、朝から年賀状を書くつもりだったが、どうも気分がフラフラしていかんので、自転車ローラー台1時間乗って汗をかいて、すっきりしてみた。
胃が開かない三日間だった。