美山スケッチ

マイミクであり、リアルに友人でもあるUさんが独り京北、美山辺りを自転車で走ってきたらしい。その事をmixiに日記を上梓されていた。美しい写真に写された風景はまさにこの季節ならではのものであった。
その日記を見て私も、無性に美山方面に行きたくなってきてしまった。
当然、自転車で・・・と言いたいところなんだけど、実は今、週に一度開いている絵画勉強会の写生ポイントを探しも兼ねて行きたかったので、久しぶりにSLKでノンビリ走ってきました。
北摂に住まいする私のルートは先ず亀岡に出て裏道で八木から国道477号京北町まで。そこからさらに477号を東に進み広河原から佐々里峠を越えて佐々里、芦生、田歌、美山、佐々江、日吉まで。ポイントになるところを探しながらノンビリ走る事にする。後は京都縦貫道でさっさと帰るとしよう。

皐月の空は見事に晴れ渡った先週某日、トランクにスケッチ道具を積んで北へ向かいます。絵の具は最近のお気に入り、シュミンケ ホラダム、鍔の広い帽子、日焼け止め(これでも日焼けをします。痛いんです)、虫除けスプレー、イーゼル、それに今回の紙はアヴァロンF6、アルシュホットプレスF4を持って行きます。どちらもブロック。アヴァロン紙は非常に表面が硬く絵の具の弾きが強いちょっと癖のある紙なんですが、その分ウォッシュに良く耐えてくれ、エッジも良く立ってくれます。アルシュの素晴らしさは今更言うまでもないことですが、敢えてホットプレスにしているのは緻密に描き込みたいときの用心ですね。あまり意味はないです(笑)
亀岡に出て国道9号を渡り、市街を抜けて田園風景と古い街道筋を八木方面に向かいます。ここで最初のスケッチポイント発見。国分寺跡です。今はもう何にもない草地ですがそこから見る田園風景に陰影があり結構ピンと来ました。亀岡、八木辺りの田園にはハンノキという境畔木が並んでいたりします。境畔木とは田の畦に植えて境界を定めるものでこんなに大規模な田圃でも昔はやはり隣地との鍔迫り合いが起こっていたのでしょう。私の田圃があるところでは畦が曲がりくねっていますが、それも昔の争いの跡、いかに百姓が土地に執着があったか、執着なしでは生きられなかったかを物語っています。
あちこちで大麦が収穫を迎えていました。
道を国道477号にとり越畑方面へゆき灌漑用池「回り田池」を巡って再び山の中に入ります。この取り付きに二番目のスポット発見です。この道はオートバイ自転車等で数えきれないくらい走っていますが、今まで何故か見落としていた小さな野池です。昼間の冴えた光線が奥のカエデを差し、深い緑の水面に美しい姿を落としていました。コントラストの強い情景でした。そこを過ぎてご覧の見事な杉並木の中を暫く走ります。本当に国道なんかなと思うくらい頼りない道が続きますが、この日は対向車もなく越える事が出来ました。京都市に入り京北町桂川沿いに走って周山町へ着きます。ここの道の駅で休憩しようかとも思ったのですが、今日は久しぶりに広河原の山菜定食が食べたくなっていたので我慢しました。

暫く走って「山國神社」に到着。京都の時代祭をご存知の方は、その行列の先頭を練り歩く維新勤王隊列鼓笛隊を知っておられると思いますがそれがここ山国地域の人達です(http://ja.wikipedia.org/wiki/山国隊)。今は道路も比較的整備され生活も開けてきましたが以前の京北町右京区内になったのは最近です)は閑散なところで主な産業と言えば林業でした。あちこちに杉を製材する作業場があり、山に入ると炭焼きの小屋が点在していました。非常にのどかな山村風景だったのを覚えています。以前この山國神社のある山国郷は京都北山の中心に当たり広く、花背、広河原、美山、佐々里等を従えた荘園でした。そのためかこの地域の人達は今も誇り高く、戊辰戦争が起こったときも真っ先に御門の元へ馳せ参じたのだという事です。ただ周辺地域は一昔前までは生活が非常に厳しく、ここから少し奥、小塩から卒塔婆峠をこえた八丁村(廃村)というところでは切り出した木材をそのままこちら側の桂川へ降ろしたのでは値が合わぬと、わざわざ苦しい思いをして急峻な峠を越えて向こう側の由良川へ降ろしたという事もあるそうです。少し行くと門跡寺院、常照皇寺への参道前の橋を渡ります。ここでトイレ休憩です。常照皇寺には天然記念物「九重桜」が有名ですが実は牡丹も素晴らしく、歴史を刻んだ本堂によく似合っています。子供の頃はこのあたりの田の水路には取りきれないくらいの田芹(日本のクレソン)が群生していて、リュック一杯に持ち帰って食べたことがありますが、今は殆どその姿を見かけなくなってしまいました。西洋クレソンよりはるかに香りが強く美味しかったです。農家も田芹は害草と考え、むしろ取ることを歓迎してくれていました。そんな想い出を振り返りつつ、
道を進みます。
花背大布施に入り国道477号と別れて北上します。すると道沿いの神社の境内から大変立派な銀杏の木が聳えています。私はこの木を花背の主の木だと思っています。新緑の今頃も素晴らしいですが何と言っても、黄金に輝く秋は息を呑む美しさです。当然この木を遠景にして良いスケッチが描けそうです。ポイントです。実はこれから訪ねる広河原の道なき山中には巨大な台杉群が密かに生えていて訪れるものを圧倒します。最大の台杉の幹回りはなんと十四、五メートルあり薮コキの末に現れる威容は恐ろしいほどです。わたしはこの木を広河原の主と呼んでいます。もっとも広河原の喫茶「庄兵衛」の主人に言わせるともっと大きい台杉があるそうで、雷に打たれたその姿は壮絶だそうです。ちなみに「庄兵衛」の主人は広河原のスキー場の持ち主でもあります。お店の向かい側の茅葺きがお住まいです。まったくの山の人です。
道を進みます。











花背への道を過ぎ、ここまでに数カ所、スケッチポイントを押さえて二枚ほどスケッチした後、お目当ての山菜定食をいただこうと車を停めたところ様子が閑散としていて人の気配なし。あらら、今日は定休日でしたか。ここの山菜定食は美味いです。この近く峰定寺(ぶじょうじ)門前の超有名料亭「美山荘」でン万円位する料理に非常に近いものがたったの千数百円。今の季節、蕨ゼンマイは言うに及ばず、コゴミたらの芽、山ウドにイタドリ、ワサビやネマガリ竹等々、すべて裏山で穫れたもの、それに蕎麦がついてもしかしたら珈琲のサービスもあるかも知れません。ほんとうに良い店です。おばちゃんが気さくで親切。残念ですが平日に来たこちらが悪いということで、一ヶ所ポイントを押さえて先に進みます。
少し行くと面白いバス停があります。「杜若」です。じつはここに杜若(かきつばた)という姓の家が二軒ほどあり、その名前がバス停になっているのです。こんな山中にここでバスを降りるのはこの家しかないからです。しかし上桂川沿いに行くこの道はどこをとっても絵になります。でも、私は筆を持とうとは思いません。美しすぎるからです。どんなに立派な技術を持った絵描きでもこの自然の美しさには歯が立たないでしょうし、元々美しいものを描くことはあまり楽しいことではありません。対象に内在する美しい角度、美的な配置を見つけ出して掘り起こして行く作業が楽しいのです。絵葉書のようなものを描いてもしかたないと思っています。まあ、これも逃避なんでしょうけどね。よってここまでにはポイントを見つけられませんでした(ほんとうは一ヶ所押さえたりしました)
先に行きましょう。
いよいよ広河原に出ました。地名は正直です。ぽっかりとここだけ広い空間が広がります。河原も源流域だというのに何故か牧歌的に広いです。不思議なところです。散在していた人家もここら辺りで終わり。喫茶「庄兵衛」のとんがり屋根を左に過ごしたらいよいよ、佐々里峠の取り付きに入ります。柳田國男の著書だったかに峠についての考察があって、緩やかに上るほうを峠の表、険しい道がついているほうを峠の裏としたとあるがさしずめこの佐々里峠は広河原からが裏なんだろうとおもう。名前が佐々里とあることを考えてもあちら側が表面ということだろう。たしかに広河原は京北の最奥である。昔は大変な暮らしだったろうと想像される。この地に以前、服部さんというご高齢の女性が独り住まわれていた。集落からだいぶ分け入ったところの一軒家に棲んでおられた。山歩きのあと立ち寄ると、気さくにお茶など頂いて話し込んでいたものです。服部さんは元は八丁村出身で、この家も元々は八丁村の分校であったものを廃村になった時に解体して家族で峠を越えて運んだという話、庭先に茗荷を植えているが最近はそこへ鹿が来るようになり全部食べられてしまったことだとか、冬には雪が10メートルほど積もって家が埋まる、京都市内にいる孫達が正月に帰ってきたら大喜びするのだとか、たまたま市内の病院に行ったところいきなり入院となったが色々辛いので勝手に帰ってきてしまったから息子さんが心配して困るだとか、いろいろ聞かされたことがありましたが、それも今は昔。十五年ほど前、当時ですでに八十をとうに越えておられたことを考えると既に鬼籍に入られたやも知れません。
峠を振り返ってみています。道がそれこそ這うようにうねうね九十九折れに上がってきます。このあたりが一番の難所、標識には斜度10%とあるのですがもっとあるように思います。たぶん部分的には倍くらいありそうです。向こうの山並みが緑のカマイユ、フォカマイユ。目が痛くなりそうです。佐々里峠は昔から美山と花背を結ぶ交通の要所で、先ほどの峠の話ではないですが、むしろ美山側からの物資がこの峠を越えてきたと考えられ、ここが塞がれば広河原の人々の生活に忽ち影響が出るということで付近の峠より最も早く除雪をするそうです。地元民の意地がこの厳しい峠を維持してきたのでしょう。峠近くには八重桜が道に沿って植えられており、いっそうそんな思いが伝わってくるようです。
ところでその八重桜、この時期でもまだ一部咲いています。じつはここ佐々里峠は京都で最も遅い桜が楽しめるところでもあります。ゴールデンウィークが過ぎた頃が一番の見頃なのです。見事な桜並木が静まり返った峠にひっそり咲き誇っています。
少し腹が減ってきました。峠の小屋をポイントに押さえて(こんなところまでは、さすがにスケッチには来ないでしょうけど)鉛筆だけでさらっと一枚書いて佐々里へ下って行きます。
峠でハイカーの車二台を見ただけで途中往来まったくなしです(笑)佐々里へ下りて八丁峠への道を行きます。
その先にある民宿「はりま家」の若い夫婦がやっている喫茶「スペースウッド」で昼食です。鹿カツカレーです。最近はここらあたりでも鹿は増え過ぎてしまいまさに害獣扱いです。オオカミを狩った人間が悪いのだそうですが困ったことです。そういえばこの先、田歌(とうた)には許可を得てジビエ料理の店ができたのだそうです。なんでもそこでは地元で撃った鹿や猪を解体するところから手伝えるそうです。山の生態系を考えるには良いのかも知れません。
この「スペースウッド」は美山川のフライフィッシングの事務所でもあり、以前は良くお世話になりました。久しぶりに訪ねたのですが、奥さんは顔を覚えていて下さいました。最近は年券も売っている(以前は日券しかなかった)ので、また一度竿を振りたくなりました。川面を見ればアマゴの新子とおぼしき魚影がササッと隠れます。ここでゆっくり休憩、長話をして午後の陰が少し長くなってきたところでお暇をし、芦生方面へ道を行きます。
SLKの写真も写しておこうということで一枚。最近こいつにはまったく乗ってませんでした。だから出かけようとするとバッテリーがいけません。仕方なく充電してもっぱらゴルフヴァリアントで出かけてしまいます。だから当然、次の機会もまたバッテリーが死んでしまっているという悪循環。そこへ二度目のガラスコートの保証書が送られてきて、俄かにこれは乗ってやらねばならんわいと今回引っ張り出しました。先ほど新型も発表されたSLKですが、どうもこの形が好きなので新型には触手が伸びません。というか購入して三年で走った距離が1万2千キロ。全然走ってないじゃないですか!



芦生の京大演習林方面への入り口で芦生川の写してみました。ここは絵にはしたくないですが、ここまでかなりのポイントを見つけました。ただそれは道沿いではなく川に下りて一部徒渉もしたところにあります。生徒さんには来れないなと思いますが、密かにスケッチしてきました。思うに絵画とは陰影であると言っても過言ではありません。モノの形を見ることは即ちモノの陰影を見ていることなどあろうと思います。だから絵画にしても写真にしても順光では様になりません。陰影の妙が画面に出なければ対象は生き生きと描写できないと思います。
芦生の森林は大変お世話になったところです。私の北山歩きの原点とも言うべきところです。とはいえ今は殆ど山に入ることはなくなりましたが、私の軟弱な体力と精神を鍛え、人生に深い思慮を与えてくれたところでもあります。またここで歴史を知りました。ここの杣道、木馬道が無名の歴史を教えてくれました。
そんなことを思い出しながら、のんびりと田歌を過ぎ、とうとう美山へ辿り着きました。



田植えが始まっていました。