言葉の重さ

遅れ馳せながら明けましておめでとうございます。皆さんは楽しいお正月をお迎えになられましたか?私はといえば毎度の事、実家にいる認知症の母と過ごしてきました。結構とんちんかんなことばかりでオモロかったです。

さてさて、実は年初から少々最近の風情に小言が言いたくなってきました。というのは、折に触れて言葉遣いの荒さについて気になってきたのです。病院へ行った時でも、ファーストフード店に立ち寄った時なんかにも、ちょくちょく感じるのは若いお母さんの子供に対する言葉遣いの荒さ、汚さです。まるでヤクザのような言葉遣いで我が子を叱りつける親までいます。高齢者でも奢り高ぶったようなものの言い方をする人も増えたように思います。汚い言葉がいつしか一般普遍化してきたように思います。悪貨が良貨を駆逐する、そんな世を感じます。相手を思いやる気持ちは言葉に現れると思うのです。上品さを言っているのではありません。丁寧な言葉とでも表現できるでしょうか。言葉は人間にとって最も重要な感情表現であり、通信手段でもあります。使い方一つで相手の心を癒す事も傷つける事もできるのです。よくよく注意して言葉を使うということは、即ち、よくよく注意して相手の気持ちに気を遣うことなのです。


万葉集の時代は歌が言葉でした。二十巻の中に散りばめられた言葉の数々は、どれも贈る相手を想う気持ちで溢れています。

 かにかくに物は思はじ朝露のわが身一つは君がまにまに
我々の祖先はこんなにも豊かな表現を身に付け、巧みに使いこなしていたのです。

 人に見ゆ表(うえ)は結びて人の見ぬ下紐あけて戀ふる日ぞ多き
表現の仕方ひとつで微笑ましく思えたりします。私を含め現代の日本人は、何か大事なものを失いかけているのかも知れません。

お釈迦様の教えの基本に清浄行があります。正しい行いをせよという教えです。その中の一つに清い言葉を使いなさいと仰ってます。言葉の大事さは今も変わりありません。また聖パウロは、心に愛がなければどんなに美しい言葉も相手の胸に響かない。と仰いました。このことも、深く内省しなければならないでしょう。

さて、言葉といえば自転車に再び乗り出してから、なにやら気に掛かることがあります。それは「チャリンコ」という自転車に対する呼称です。ハングル語から来たとも言われています。ただ私が自転車に乗り始めた三十数年前には、このチャリンコという言葉は別の意味でした。それは、当時いわゆる不良少年のあいだで交わされた隠語として使われていたのです。主に自転車をかっぱらう、盗む、という意味だったと記憶しています。いつの間にか軽快車をママチャリと言うようになって、その隠語は堂々と自転車を指す言葉として使われるようになりましたが、ここにもまた汚い言葉が普遍化した軌跡を見るようで空しい思いがあります。事情を知る由もない若い人には何の抵抗もない言葉ですし使うなと言うつもりも毛頭ありませんが、私個人にはチャリンコと言う言葉は自転車に対する蔑称と聞こえてなりません。

江戸時代、化政文化が花開いた頃、街の若者はこぞって新しい言葉を創作し使用したと聞きます。今の言葉の中にも当時の若者言葉が残っています。「新しい」という言葉はこの頃作られました。それまでの「あらたしい」をひっくり返して「あたらしい」と言い出したのです。
まさに新しくできる言葉は面白い。ユーモアや洒落があります。しかし、新しくても汚い荒い言葉は不愉快で悲しいものです。江戸の若者が、まさか数百年後の私達のことを思って新しい言葉を作ったとは思いませんが、数百年後の私達の子孫が醜い言葉の中で生きていかないようにだけはしたいものです。